追悼読書 倉橋由美子『あたりまえのこと』

倉橋由美子が亡くなった。とはいえ、小説を読んだことがないのである。「聖少女」、「スミヤキストQの冒険」さえも。こんなんでなりたい職業につけるのか私。
電車の中で『あたりまえのこと』(朝日文庫)をパラパラ。エッセイ。
「純文学」の項には「純文学」を「実は芥川賞その他をもらったりもらいそこねたりしている」「比較的若い素人が自分の気持ちや体験を綴った」「フォークソングのようなもの」としてこんなくだりがある。

自己表現などと言えば大層結構に聞こえるが、本当のところは自分の興味のもてる唯一のこと、つまり自分のことしか書かず、他人を異種の動物のように眺めているだけのことなので、これは子供と素人に共通して見られる性質である。(…)他人すなわち公衆に向かって語るという覚悟が欠けている(…)もっともフォークシンガーの方は若い聴衆に向かって歌いかつ語り、時には冗談を言うことも忘れない。純文学の作家はひたすら自閉的につぶやく。
「物語性の回復」などとものものしいスローガンを掲げる前にこの自閉をなんとかする方が先決である。(…)語り手が下を向いて口ごもったり深刻そうな苦しげな暗い顔を見せたりすることで芸術性が生じるわけではない。そこにあるのは想像力の貧困や話下手等々を含めた芸の貧困にすぎないのである。

たとえば、と谷崎潤一郎を例に挙げているのだが、なるほど「他人すなわち公衆に向かって語るという覚悟が欠けている」とは納得。分かりやすく物語ることが芸術性を損なうというのはおかしな考え方だよなあ。と、何度もうなずく。