〈純粋テレビ〉としての「お台場明石城」

いま一番素直に笑って見ているテレビ番組は「お台場明石城」。
ディレクターが企画をプレゼンし、プロデューサーや編成に審査され、番組化されるまで(されないまで)のプロセスをそのまま見せている。若いひとがどんな企画を出すのか、そしてどんな企画なら通りがいいのかなどを見ていると、こっちまで若いディレクターやあるいは審査する側の編成の感情に移入してしまう。が、移入する前に、「企画会議」というディレクターと編成(まあ記者とデスクとか作家と編集者とかの類)のやりとりと、フジテレビ社員の生態を面白がって笑っているのだが。
素直に笑って見ている――。
しかし、北田暁大『嗤う日本の「ナショナリズム」』(NHKブックス)を読んでいたらこの素直な笑いは「シニカルな嗤い」でもあることを再認識。
なんとはなしにいまのテレビ視聴者、といっても30代くらいまで? は、どこかでテレビ番組がたしかに「つくられたものである」ことを分かったうえでテレビを見ているはず。この「テレビはつくられたものである」という意識でもってテレビを見る態度を北田は「お約束を嗤う身体性」というフレーズで言っている。要するに、テレビ番組(内容)とテレビのその外部(タレントの素性、スタッフのキャラクターといった楽屋話や製作過程、番組構成の方法=お約束といったウラ側)を知り尽くしたうえで、まるで番組スタッフであるかのような反応でもってテレビを視聴する態度が「お約束を嗤う身体性」ということだ。
北田は「元気が出るテレビ」がこうした身体性を育んだ最初だという(リテラシー教育?)。「元テレ」はVTRがあって、それをたけしや松方弘樹がスタジオで「視聴してつっこみをいれている」というのを視聴者が見るという構図だ。「見て(つっこんで)いる人を見る」というメタなわけである。一般視聴者にこの視点を覚えさせたということは、従来の「全員集合」を見てそのコントに純粋に笑ってしまう、というのとは違った意識を植え付けた。まるで見ている自分が構成作家であるかのごとく、「ここでたらいが落ちる」ということに対して「嗤う」ことをおぼえはじめたのだ。つまり、「つくられたもの」という意識あってこその嗤い/笑い声が生じる。
こういうテレビ番組そのものと、その背景すべてがさらされている状態を北田は〈純粋テレビ〉と名づけている。
ならば、「お台場明石城」はまさに〈純粋テレビ〉である。
ディレクターの企画が通り試作品ができる。試作品を見て編成やプロデューサーが意見する。さんまが突っ込む。……というやりとりをわれわれは見る。
われわれはテレビを「つくっている」人のやりとりを視聴し、「反省会」に参加しながら番組を嗤っている。(そういえばこの番組はたまに深夜にやっていた「反省会」番組が起源らしい)
といことなので、そういう身体性が身についた私にとって「明石城」は自然と素直に笑ってしまう番組なのであった。(企画を出すってことは大変なんだよなあ、というそれこそ内輪的な同情を抱きながらも見ているんだが)
でも興味深いことに、ゴールデンで明石城やったとき、水口昌彦編成局企画担当部長やらフジテレビ社員がコメントしてるときには視聴率がガクッと落ちてる。「嗤う」視聴者でも、そうはいっても内輪(ギョーカイ)的なものには親和しないほうが多いということなのかね。内輪と同化して楽しむ視聴グセっていうのはやっぱり「元気が出るテレビ」―「ねるとん紅鯨団」ラインをなぞっていった年齢層以降の身体性ってことか。
んでもって、フジテレビは経営陣までがあんだけ有名になったので、テレビ局とその背景すべてがさらけ出された〈純粋テレビ局〉とさえいえるのかもしれない。

北田暁大は33歳ということで。気鋭ですなあ。でも電車男で泣くというのにはどうもねえ。ナンシー関をえらい評価してて面白い本なんだけど。