平成元年 ゲームボーイの発売

やきとりを食べに行こうと自宅の近くの公園の前を通ったら、夏服を着た高校生の男子女子が仲睦まじく石段に腰掛けてささやきあっている。こちらの足音が近づくのを気にするのは女子のほう。通り過ぎる直前彼女は、きっ、っとこちらに振り向いた。少し怖れた表情をさせながら。男子の背中は動かない。シーソーの脇には白いビニールのかばんが二つ並んでいる。そばに置かれたコンビニの袋からは、はみだしたペットボトルが見える。さっきまでもっと大人数の若い声が聞こえていたから、彼ら彼女らはペットボトルを飲み捨ててもう帰ったのだろう。彼ら彼女らに気を利かせてもらったのか分からないけれども、そうして二人はささやきあう権利を行使する。
やきとり屋で『ユリイカ』6月号「任天堂/Nintendo」をめくる。井上明人宮本茂をめぐって」をホッピーに思考力を奪われつつ読む。飲まなくても思考力はないがね。ゲームにおける作者の二重性を軸にマリオの産みの親の限界と可能性を検討している。この作者の二重性というのがわからなかった。製作者とプレイヤーをもって作者は二重であるという説を引用しているんだが、じゃあ小説における作者と読者とはどう違うのか。これはゲームをRPGに限っていえばのことなんだが。マリオの作者の二重性ってしかし、なんだろう。作者の制度(マリオの操作方法とか)に拘束されている限り、やっぱり作者は製作者に限られるんじゃないのかと思ってしまった。マリオとか別に物語を読み解くわけでもないし、「解釈」があるわけでもないから、作者が死んでいるわけでもないでしょう。
任天堂の年表が載っている(川嶋圭太作成)。1989年(平成元年)、ゲームボーイの発売。思い出す、コナミの「クオーク」。「ドラキュラ伝説(だっけ?)」とか。酒を飲むと涙腺がゆるくなって困る。
23時過ぎ、店を出る。二人がいた石段の片隅に、真新しいセブンスターの空き箱があった。そのくせゴミはきちんと持ち帰られていた。