最後の参拝

小泉首相の最後の外国訪問はフィンランドシベリウスの生家を訪ねてた。シベリウスの墓前(?)で手を合わせてもいた。総裁選スタートの日に日本にいないようにしたのは彼の美学なのかしら。
総裁選である。安倍晋三美しい国へ』も読んだわけである。略して「美国へ」。アメリカ思いなタイトルである。しかしとても感想の言いにくい本だった。興味を持って読んだ教育の部分も郷土愛・家族愛を育もうね、ということに終始しているし。モデルが「大草原の小さな家」。レーガンのときに復古主義と言われたけれども、現在、アメリカの家族崩壊はこれによって食い止められた、と言うんだが、そうなのか? どうもいいとこの坊っちゃんがいいとこ取りしてる気がする。そしたら今度は「3丁目の夕日」の映画のワンシーン、吉岡秀隆小雪に見えない指輪をはめるシーンを引いて「お金で買えない」「いまの時代に忘れられがちな家族の情愛や人と人とのあたたかいつながりが世代を超え」訴えかけているものがあるからこそ、あの映画はうけたのだという。「家族、このすばらしきもの」というフレーズでもって語っているんだが、それは何も家族への帰属のみを言っているわけでなく、そのあとイチローが「国のために闘った」WBCの話題を振るように、「日本、このすばらしきもの」を指す。安倍晋三のいう帰属意識の育成はガチガチに強固なものへの帰属を意味しているようだ。「家族」や「国家」という「単一」共同体はひとつのベクトルしか選択できない、ひとつの方向に向かってともに進むものなのだ、という彼の「ナショナリズム」。彼は帰属についてこう書いている。「一つを選択すれば、他を捨てることになる。なにかに帰属するということは、そのように選択を迫られ、決断をくだすことのくりかえしである」。本来、政治とはこういう一方向をむいたままの排他的なものだろうか。政治とはバランスなんだと思う。政治にはためらいや躊躇が必要なのではないか。ためらったままバランスをとるのが政治なのではないか。レヴィナスを読んでいる政治家っているのだろうか。って読んでないくせに言えた義理ではないが。「現実というものを固定した、できあがったものとして見ないで、その中にあるいろいろな可能性のうち、どの可能性を伸ばしていくか、あるいはどの可能性を矯めていくか」を理想なり目標なりにしていくリアリズムの政治思考を丸山眞男は言っているそうだ(苅部直丸山眞男岩波新書)。ひとつの信念を持ち続けることは「美しい」かもしれない。けれど、けれどという気がどうしてもぬぐえない。