福島

昨日組閣だった。松岡利勝だもんなー。うける。再チャレンジ相で、鈴木宗男を入れるくらいのウケ狙いをしてほしかったのに。美しい国造り内閣だと。国生み、がんばってくらさい。
うつくしまふくしま、こと福島県が大変。古典的な談合スキャンダルで佐藤栄佐久知事が辞任である。権力者の兄弟、東京のゼネコン、地元業者、県の黒幕。クラシカルな談合劇である。今日の夕刊は「辞任へ」と朝日が1面で大きく打っていた。毎日の夕刊は社会面で福島談合記事を載せていたが、4面で「常磐炭鉱」の特集を組んでいた。李相日の「フラガール」が公開されたことで注目を浴びる「磐木ハワイアンセンター」(今のスパリゾートハワイアンズ)を取り上げている。ハワイアンセンターが出来るのが石炭から石油へエネルギー革命が起こらんとしている41(1966)年。その5年後に常磐炭鉱は閉鎖する。この石炭産業の落日を見越して、すべてを地元でまかない、鉱員の受け皿と地元産業の転換を狙ったのが「ハワイアンセンター」だったのだが、時代がひと回りして、この「地元経営」の古くささを評価する向きもあるようだ。外部委託より身内経営というか、この記事にも出てくるが、常磐炭鉱の経営合理化と労働者家族の研究をしている(そんな人もいるんですなあ)早大の鶴岡寛司教授なんかも見直していたりする。美しい国造りと、なんかからみそうな話ではある。ところで「フラガール」はたいへん結構で、意外にもいろんなシーンで泣かされたのであった。そのなかのひとつに椰子の木を寒さから護るためにストーブを使う段があるんだが、これは今日の毎日を読む限り実話らしい。ここで出てくる富司純子が、泣かせます。俳優陣がよくて、蒼井優も巧みだし安心。徳永りえだっけかなあ、蒼井優の友人役の子がよかった。書くときりがないが、しずちゃんが敢闘賞である。福島は天気予報を福島県内で見るとよく分かるが「浜通り」「本通り」「会津」の3エリアに分かれている。いわき市は「浜通り」。郡山は「本通り」。(要確認)会津といえば白虎隊なわけで、福島県民は小学校とかで白虎隊の歴史を教えてもらうそうだが、「群像」10月号(創刊60周年記念号)で糸糸山秋子が寄せている「うつくすま ふぐすま」は白虎隊の血を引くという同姓同名の女性と仲良くなって、少し吹っ切れる女性の話(まったく小説の内容を要約するのは至難だ。これもとても内容をフォローしてないことは重々承知)。冒頭と中間に挟まれるのが「私の名はうつくすま。/ふぐすまを探しています。/私の名はふぐすま。/うつくすまを探しています。」というもの。何なんだろう。なんかそれこそ、国生み神話的で、古事記みたいに感じた次第。福島、ちょっと面白いぞ。

俳句王国

起きたら「純情きらり」の一週間まとめをBSでやってた。また見ぬ間に結構進んでるなあ・・・。そのあと「俳句王国」が始まって、今見てる。いつもはご当地の素人が出て7〜8人で選句する番組なんだが、今日はスペシャルなのか俳人が揃ってる。子規記念館から中継らしい。松山の子規記念館はかなりいい施設である。黒田杏子、有馬朗人、宇多喜代子とか。中でも金子兜太がおもしろい。句がおもしろいというより、その存在感が。べらんめえな人なんだなあ。主宰(相原左義長)が絶句するし読み間違えるしで、かなりボケてるんだが、有馬朗人の句をめぐって独特の解釈を披瀝すると金子が「主宰に反抗するのは失礼だけどよー、それは違うんじゃねーか」とか座を盛り上げる。番組のアシスタントの「さきちゃん」(たぶん20代)が作った「露を見ている制服の少女かな」に対しては「これは年寄りくせーなー」。金子兜太って日銀にいたんだっけ。面白い人だなー。87歳とは。

異化としての哀川翔

とかなんとかタイトルを打ってみたものの、考えがまとまっていないので保留。三池崇史「太陽の傷」。なんで、哀川翔を応援し、暴力にすっきりしてしまったのか考えなければならない。/貫井徳郎『空白の叫び』/日垣隆『そして殺人者は野に放たれる』

土曜日から李相日「フラガール」が公開。この前「情熱大陸」で蒼井優をやってた。なんか頭がいいんだろうけど、きっと「蒼井優」を生きているんじゃないかというきがして、その言動のひとつひとつがわざとらしく見えてしょうがなかった。情熱大陸だからかな。

怪奇美?

金曜日、イイノホールの東京落語会。トリは三笑亭可楽で「寝床」。となりの爺二人組が「先代の可楽の寝床聴きたかったねえ」と叶わぬ夢物語を語っている。8代目可楽っていうのはすごいすごいとよく聞くが、実は聴いたことがない。新聞の全面広告でたまに「三笑亭可楽全集」が広告されているけど、どんなかんじなのか。この日の可楽も思ったほど悪くはない気がしたけど。談志に名前だけ継ぎやがってと非難されたと愚痴ったりしつつ、プレスリーのブルーハワイを歌って、まくらとしていた。歌はうまいのね。
浅野いにおのスピリッツ短期連載「日曜、午後、六時半。」にずいぶん心動かされたので、「ソラニン」(全2巻)を読む。これまた、ツボを押されたかんじ。動く風景と動かない風景。
今月の6日(水)に駒場柳宗悦の家に行ってきた。水曜日だけ開放している。縁側のあるいい家。こんな家に住みたい。日当たり良好。「書斎のある家ください」とは夏帆だが、宗悦の書棚もそのまま保存してある。これがすこぶる面白い。棚にある本で気になったのはこんな本。神原泰『フューチュリズムダダイズム・エクスプレッショニズム』、今村太平『映画芸術の形式』、園頼三『怪奇美の誕生』。怪奇美って?
INAXギャラリーでやっている「内藤多仲展」もなかなか面白い。監修は橋爪紳也っぽい。内藤は東京タワー、名古屋テレビ塔通天閣を建てた早稲田の先生。早稲田の理工は松本和子教授のおかげで大暴落だが、こんな誇れる人もいたわけです。耐震構造の父と言われているらしい。真面目だったのか茶目っ気で言っているのか判断がつかないこんな歌を年賀状に書いて人に送っている。「君知るや壊れたためしまだ聞かぬ鉄骨入りの鉄筋のビル」。うーん。
17日(日)、ラーメンズときたろうが出ている舞台をみる。「泥棒役者」。シチュエーションコメディ。ある作家の家に入った泥棒が不意の来客に見つかり、ごまかしと勘違いが連鎖してなぜかみんな納得して進んでいく形。三谷幸喜の「バッドニュース☆グッドタイミング」を思う。ラーメンズってやっぱり肌に合わんな。
黒澤清「LOFT」。ラストのオチは完全に笑わせようとしているとしか思えない(感じとして、あえて昔のアメリカのB級映画とかの終わりを意識したような)。怪奇美? 鏡がたくさん出てきて、不在をテーマに?……なんて考えていたのがばかみたいな気になった。単純に見てればよかった。

コンドルズ

9月2日にコンドルズ公演に行った。あんなにメジャー感のある人気集団なのだとは思わなかった。あれでは人気小劇団と同じだ。女子のファンが多い。目当ての踊り手がいるのだろう。コンドルズを知ったのはいつだったか。たしか、たしか広告批評の21世紀の表現者たち、みたいな特集で珍しいきのこ舞踊団の伊藤千枝が出ていて、そこでコンドルズの名前を知ったのと、もちろん近藤良平が表紙になる前のAERAかなんかでコンドルズが学ランを着て踊り狂う集団だったことを知り興味をもった二つが複合してのことだったと思う。
舞台は近藤良平のキレが際立っていた。集団舞踏なのでかなり揃った動きを期待していたんだが、そういうものではなかった。ストイックなものではなかった。生で舞踏を見たのはこれがはじめて。ああ、DVDのローザスはストイックな、集団舞踏だった。でも聞くところによると、ローザスは生で見ると一人一人の動きが小さくて(?)分かりずらいんだそうな。DVDで見るべきらしい。

最後の参拝

小泉首相の最後の外国訪問はフィンランドシベリウスの生家を訪ねてた。シベリウスの墓前(?)で手を合わせてもいた。総裁選スタートの日に日本にいないようにしたのは彼の美学なのかしら。
総裁選である。安倍晋三美しい国へ』も読んだわけである。略して「美国へ」。アメリカ思いなタイトルである。しかしとても感想の言いにくい本だった。興味を持って読んだ教育の部分も郷土愛・家族愛を育もうね、ということに終始しているし。モデルが「大草原の小さな家」。レーガンのときに復古主義と言われたけれども、現在、アメリカの家族崩壊はこれによって食い止められた、と言うんだが、そうなのか? どうもいいとこの坊っちゃんがいいとこ取りしてる気がする。そしたら今度は「3丁目の夕日」の映画のワンシーン、吉岡秀隆小雪に見えない指輪をはめるシーンを引いて「お金で買えない」「いまの時代に忘れられがちな家族の情愛や人と人とのあたたかいつながりが世代を超え」訴えかけているものがあるからこそ、あの映画はうけたのだという。「家族、このすばらしきもの」というフレーズでもって語っているんだが、それは何も家族への帰属のみを言っているわけでなく、そのあとイチローが「国のために闘った」WBCの話題を振るように、「日本、このすばらしきもの」を指す。安倍晋三のいう帰属意識の育成はガチガチに強固なものへの帰属を意味しているようだ。「家族」や「国家」という「単一」共同体はひとつのベクトルしか選択できない、ひとつの方向に向かってともに進むものなのだ、という彼の「ナショナリズム」。彼は帰属についてこう書いている。「一つを選択すれば、他を捨てることになる。なにかに帰属するということは、そのように選択を迫られ、決断をくだすことのくりかえしである」。本来、政治とはこういう一方向をむいたままの排他的なものだろうか。政治とはバランスなんだと思う。政治にはためらいや躊躇が必要なのではないか。ためらったままバランスをとるのが政治なのではないか。レヴィナスを読んでいる政治家っているのだろうか。って読んでないくせに言えた義理ではないが。「現実というものを固定した、できあがったものとして見ないで、その中にあるいろいろな可能性のうち、どの可能性を伸ばしていくか、あるいはどの可能性を矯めていくか」を理想なり目標なりにしていくリアリズムの政治思考を丸山眞男は言っているそうだ(苅部直丸山眞男岩波新書)。ひとつの信念を持ち続けることは「美しい」かもしれない。けれど、けれどという気がどうしてもぬぐえない。